平和のための富士戦争展2022

こんにちは。三期生のぷーちゃんです。

突然ですが、皆さん、市役所前の『核兵器廃絶平和宣言都市』の宣言塔をご存じですか?私は富士市に越してきたときからなんとなく気になっていたのですが、今年の夏にロゼシアターで開催された【平和のための富士戦争展】に行ったことがきっかけで、この宣言塔や、戦時下の富士市について知ることができました。

富士戦争展の会場に入ると、まず壁いっぱいに広がる美しい二枚の絵が出迎えてくれました。ピカソが内戦で空爆された町を描いた有名な作品「ゲルニカ」と同じ大きさ(縦3.5m×横7.8m)のキャンバスに、子どもたちが平和への願いを込めて描く、国際的なアートプロジェクト「キッズゲルニカ」です。

富士宮市内の小~高校生の作品

次に目をひいたのは、可愛らしい起き上がりこぼしです。世界中の著名人たちが平和と復興を願って作りました。

一転して、壁の反対側は様々な戦争にまつわる研究を集めた展示でした。この戦争展の中で私が1番印象に残ったのは、広島の現役高校生が描いた壮絶な原爆の絵です。被爆を体験した方との対話や資料調査を重ね、被爆者の方の「こんな思いを他の誰にもさせてはならない」という切実な願いを、約1年の歳月をかけ、1枚の絵で表現されています。戦後77年が経ち、戦争を伝える方も少なくなってきてしまった中で、話し手、聞き手ともに、目をそらしたくなるような記憶から逃げずに、使命感を持って取り組んでくださった気迫を感じました。

富士市は、広島・長崎と比べると、戦争の傷跡があまり残っていないように見えますが、実は市内のあちこちにアジア・太平洋戦争にまつわる戦争遺跡があります。義勇軍富士小隊と富士郷開拓団として送出された富士市の若者たちの数は県下トップで、多くの若者が満州国へと送り出されたそうです。当時の富士市では空爆もありましたが、市内の多くの寺院では学童集団疎開の児童たちが寝泊まりしていました。そこでは、学童たちを元気づけようと、地域の方々からたくさんの農作物や日用品の寄贈などがあったと言われています。学童たちも農作業の手伝いをしながら、地域の方々と季節の行事を楽しむといった交流があったようです。

『核兵器廃絶平和都市宣言』は、1981年の末に核戦争の危機が高まった頃に全国的な広がりを見せ、富士市では1985年に、当時の市人口の1/3に当たる7万2,902人の署名を集め、満場一致で採択されたそうです。そこからこの宣言の内容を具体的に実践していこうと、1986年に発足したのが核兵器廃絶平和富士市民の会で、今日の活動があります。

会場には、戦争体験者であり、核兵器廃絶平和富士市民の会の土屋芳久さんが、来場者に貴重なお話を詳しく説明していました。

戦争展の主催者である、核兵器廃絶平和富士市民の会では、毎年恒例となった戦争展のほか、映画上映会、講演会、平和講座、語り部の会、富士の戦争遺跡を巡るバスツアーなど、未来に戦争の悲惨さを伝えていくための活動を積極的に行っています。

今回、取材をしていく中で、たくさんの戦争体験者の手記を読みましたが、どの方の手記にも通じるのは、“もう二度と戦争をしたくない“という思いでした。そして、当時の富士市民の思いがたくさん詰まった宣言塔のことに思いを馳せると、戦争の記憶を風化させずに、次世代にしっかりとつなげていくことの大切さを強く感じました。

■核兵器廃絶平和富士市民の会ウェブサイト
http://heiwafuji.web.fc2.com/

■市ウェブサイト「平和への願いを込めて(平和推進事業)」
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/shisei/c1401/fmervo0000001o6n.html